読売巨人軍・ミスター長嶋茂雄さんが惚れ込んだ男・原辰徳さん。
巨人の4番打者として数々の成績を残され、監督としても球界を代表する名将です。
その原辰徳さんの経歴を振り返ると共に嫁・明子さん、息子の噂などもみていきたいと思います。
また、今後の監督復帰の可能性についても考えていきましょう。
原辰徳 経歴と通算成績
原辰徳(はら たつのり)
- 【生年月日】1958年7月22日(60歳)
- 【出身】神奈川県相模原市
- 【身長/体重】181cm/88kg
- 【投打】右投右打ち
- 【ポジション】三塁手・外野手・一塁手
- 【ドラフト】1980年ドラフト1位
【表彰】
- 新人王(1981年)
- MVP1回(1983年)
- ベストナイン5回(三塁手部門:1983・1987・1988、外野手部門:1990・1991)
- ゴールデングラブ賞2回(三塁手部門:1987年・1988年)
- 野球殿堂(2018年:エキスパート部門)
- 世界最優秀監督1回(2009年)
【タイトル】
- 打点王1回(1983年)
【経歴】
- 東海大学付属相模高等学校→東海大学→読売ジャイアンツ(1981~1995)→読売ジャイアンツ監督(2002~2003・2005~2015)
1958年福岡県大牟田市に生まれた原辰徳さん。
小学校時代は色々な小学校を転々としましたが、父の東海大学付属相模高等学校監督就任が決まり神奈川県へ引っ越しされます。
1974年に東海大相模高校に入学した原辰徳さんは1年生から三塁手レギュラーを掴み活躍をみせます。
夏の甲子園に3年連続で出場するなど「原フィーバー」も巻き起こしました。
高校卒業後の1977年に東海大学政治経済部経済学科に入学した原辰徳さん。
大学1年秋から活躍をみせ、大学3年の時には岡田彰布さんと3・4番を組み日米野球でも活躍。
大学4年の明治神宮野球大会では1試合3本のホームランを放ち「長嶋茂雄の再来」の期待をさらに大きく背負いました。
1980年のプロ野球ドラフト会議で、読売ジャイアンツにドラフト1位で入団が決まります。
前年まで巨人の指揮をとっていた長嶋茂雄さんが、「できることなら僕の《3》を譲りたい」というはど惚れ込んでいました。
1981年、東海大学を卒業され読売ジャイアンツに入団。
開幕戦に6番・セカンドで先発出場を果たします。
牛島和彦投手からプロ初ヒットを放つと、翌日には小松辰雄投手からプロ初本塁打を放ちます。
シーズン終盤には成績を落としてしまいましたが、見事「新人王」に輝きました。
1983年には打率3割を記録し「打点王」を獲得し巨人の優勝にも貢献されました。
1987年・1988年には2年連続となる3割30本塁打を記録するなどチームの勝利に貢献した原辰徳さん。
翌年1989年にはレフトにコンバートされるが、新人時代から9年連続となる20本塁打のプロ野球新記録を成し遂げました。
1992年には歴代巨人の日本人選手として初の1億円プレイヤーになり、12年連続20本塁打の日本記録も更新した原辰徳さん。
しかし、1995年に現役引退を発表。
引退セレモニーでは
「巨人軍の4番打者には何人も侵すことが出来ない聖域がある」
と語った後に
「今日私の夢は終わります。しかし私の夢には続きがあります」
と言葉を残し現役生活に幕を閉じました。
引退後の1996年から1999年3月まで解説者・評論家として活動されました。
そして1999年。
長嶋茂雄監督の元で、一軍野手総合コーチとしてプロ野球界に復帰されました。
2001年シーズンオフに勇退された長嶋茂雄監督の後任として監督に就任。
2002年1年目からあらゆる選手起用でリーグ優勝を成し遂げ、日本シリーズでもストレートで西武を破り日本一を獲得されました。
しかし翌年、松井秀喜さんのMLB移籍や主力選手の怪我によりチームは低迷。
シーズンも4位で終わってしまい人事異動の名目で監督を辞任されました。
その後は読売ジャイアンツ特別顧問として活動されていましたが、堀内恒夫監督の成績不振により後任として再任。
2005年10月から第16代読売ジャイアンツの監督に就任。
2007年にはリーグ優勝するものの日本一には届きませんでした。
その中で原辰徳監督は若手育成に力を入れていきます。
そして迎えた2008年。
一時は首位・阪神タイガースに13ゲーム差をつけられ今年もかと誰もが思っていました。
しかし、シーズン終盤に12連勝などの連勝で首位阪神を逆転し首位に立ち2年連続リーグ優勝を飾ります。
2009年にはWBC日本代表監督に就任し大会2連覇を達成。
その後も若手の育成や中堅・ベテランを積極的に使い分け2012~2014年でリーグ優勝。
日本一も2012年・2014年に達成するなど成績を残してきた原辰徳さん。
しかし、2015年10月19日に監督辞任を発表されその後は読売ジャイアンツ球団特別顧問に就任されました。
2018年には野球殿堂入りを果たし解説者など様々な場所で活躍されています。
選手通算
- 【試合数】1697試合
- 【打席数】6844打席
- 【安打数】1675安打
- 【本塁打】382本塁打
- 【打点数】1093打点
- 【打率】.279
監督通算
- 【就任年数】12年
- 【試合数】1715試合
- 【勝利数】947勝
- 【敗戦数】712敗
- 【引分数】56分
- 【勝率】.571
- 【リーグ優勝】7回(2002・2007・2008・2009・2012・2013・2014)
- 【日本一】3回(2002・2012・2014)
- 【WBC】世界一(2009年)
- 【就任年】2002~2003・2006~2015
原辰徳 嫁・明子さんとは?
次に原辰徳さんの嫁・明子さんとの馴れ初めについてみていきたいと思います。
原辰徳さんの嫁・明子さんは6歳年上の姉さん女房で、2人は大学時代から交際をされていました。
最初のプロポーズは、原辰徳さんが読売ジャイアンツに入団した1年目にされました。
しかし、将来の4番候補であった原辰徳さんの結婚に父は反対され結果として2人は破局してしまいました。
その後、明子さんは他の男性と結婚してしまい原辰徳さんはスランプに陥ったりしてしまいます。
将来の巨人軍の4番として期待されていた原辰徳さんのプレッシャーはとても大きいものがありました。
しかしその後、明子さんと再会した原辰徳さん。
その時、明子さんは結婚相手と離婚しており2人は結婚。
1986年11月に結婚式と披露宴をあげ、原辰徳さんは巨人の4番として活躍を続けました。
原辰徳 息子は逮捕?
原辰徳さんの息子である原嘉宏さんが逮捕された?という話が話題となりました。
警察が動き出し大物を強制捜査すると警察担当記者の間で話題が上がりました。
その大物人物こそが読売ジャイアンツで4番打者として活躍されていた原辰徳さんの息子さんでした。
警察が原辰徳さんの息子が薬物をやっていると入念に捜査していたそうです。
息子・原嘉宏さんの情報を入念に捜査し、結果として可能性ありとみた警察が強制捜査に入りました。
しかし、結果は「シロ」で家の中には証拠はなく、薬物使用の後もありませんでした。
「原辰徳 息子逮捕」が噂で終わって本当によかったです。
原辰徳 監督復帰の可能性は
最後に原辰徳さんの監督復帰についてみていきたいと思います。
原辰徳さんは12年の監督歴の中で、リーグ優勝7回・日本一3回と球界屈指の実績を残されている名将です。
現在は読売ジャイアンツの球団特別顧問や解説者として活躍されている原辰徳さん。
日本代表の監督候補としても名前があがっていますが、読売ジャイアンツでの監督復帰も可能性は十分にあります。
勇退された後も名将としての実力は残っています。
読売ジャイアンツ「黄金期再来」へ向け原ジャイアンツの可能性は高いのではないでしょうか。
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